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『私の名前はまだない』 第二章

この話は『黎明境界』にて公開していた作品のまとめです。
行きつけの喫茶店で彼に出会ったことが、すべての始まり。

それでは、続きからどうぞ。

 ある日の仕事帰り、私は行きつけの喫茶店で不思議な男の人と相席になった。

 その人はカジュアルな格好で、こういってはなんだかすごく普通な人だった。平日のまだ明るい時間ではあったけど、まるでそこにいるのが当たり前のように風景に溶け込んでいた。その人自身に特徴らしい特徴はなく、道ですれ違っても意識しない程度の存在感しかなかった。本当にただの普通の人だった。しかし、相席を店の人がお願いして、私の姿を見た時の彼の対応は普通とは違っていた。
 初対面の人はスーツを着た私の姿を見ると、まず間違いなく怪訝な顔をするのだけど、その人は全くそんな様子を見せず、快く相席を受け入れてくれた。
 それだけでも私の中でその人に対する印象は良かった。
「ここの店、美味しいんですけど席数が少ないんですよね」
 にこやかに話しかけてくるその人はとても好感の持てる雰囲気を身に纏っていた。私を前にすると、どこか甘く見ている感じがすることが多いのだけど、その人からはそう言った感じが全く感じられない。
「そうですね。けど、それだけの価値はあると思います。……カプチーノ、お好きなんですね」
 その人が飲んでいたのは、カプチーノだった。この店の一押しは別の物なのだけど、私はこのカプチーノの方が美味しいと思っている。
「ええ。好みもありますけど、この店だとこれが一番美味しくて」
 単純な話だけど、相手が自分と同じ考え方をしていることで、私はすっかりその人を身近に感じるようになった。
「私も好きなんですよ。やっぱりこの店の一番はカプチーノですね」
 その後暫く会話を交わしてたら、見ず知らずの相手にも関わらず、一時間近くも話し込んでいた。その人は話題が豊富で間の取り方も上手く、気付いたら色々喋ってしまっていたのだ。
 思いがけない楽しい時間。それは不意にその人が腕時計を見ることで終わる。
「……おや。もうこんな時間ですか。すっかり話し込んでしまいましたね」
「あら、ホントですね」
 私も彼に言われ、そんなに時間が経っていたことに気付いた。
 彼は身支度を整えながら立ち上がる。
「それでは、私はそろそろ失礼します。楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございます」
「いえ、私も楽しかったです。またこの店でお会いしたときは御一緒していただけますか?」
 思わずそう口にしてしまったのも、彼との相席が非常に心地よいものだったからだ。彼もまたそうだったんだろう。優しい笑みで私の提案を受け入れてくれた。
「ええ、喜んで。ではまた」
 男の人は礼儀正しく一礼し、レジの方へ歩いていく。
 私は楽しかった時間の余韻に少しだけ浸り、それから帰ることにした。
 立ち上がった私がふと気付くと、さっきの人がまだレジの前にいた。
 もうとっくに清算を終えているはずのその人がまだいることを、私は不思議に思った。なにやら困った顔をしている。店員と何か話しているようだ。
 私は彼に近づき、声をかける。
「どうかしたんですか?」
 すると彼は私の方に困った顔を向ける。
「ああ、先ほどの……それが、財布を家に忘れてきてしまったようでして」
 それだけで事情は理解できた。代金が支払えなくて困っているのだろう。
「困りました……」
「あの、よかったら私が払いましょうか?」
 そう提案すると、男の人は驚いた顔をして、慌てて首を横に振った。
「いえ、先程知り合ったばかりの方に、そんなご迷惑をお掛けするわけには」
「またいつかお会いしたときにでも返してください」
 男の人はそれでも悩んでいたようだったが、ここで押し問答をするのも店に迷惑をかけると思ったのか、深く頭を下げる。
「すいません……お願いします」
 一杯くらいのお代くらいなんてことはない。仮に返してもらえなかったとしても、楽しい会話の分だと思えばいいだけだ。
 男の人の分も支払い、私は店の外に出た。私に続いて店から出てきた彼は、もう一度私に向かって頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしまして……」
「もういいですよ。袖振り合うも多少の縁。持ちつ持たれつ。情けは人のためならずってやつです。数百円くらいのことですし、気にしないでください」
 しきりに恐縮している様子の彼だったが、私がそういうと少しほっとした顔になった。
「あ、そうだ……宜しければ、これを」
 男の人がそう言って懐から取り出したのは名刺だった。私に向けて差し出してくる。
 そこには、男の人の名前と電話番号の他に『雑貨店 経営』という表記があった。
「雑貨店を経営なさっているんですか?」
 私はその名刺を受け取りながら、そう尋ねる。
 彼は軽く頷いた。
「ええ。近くにお越しになった際は、ぜひお立ち寄りください」
 場所は名刺の裏面に地図付きで示されていた。丁度私の行動範囲内だ。会社の帰り道にでも行けそうな距離だった。少し出来すぎだと思わなくはなかったけど、ここまで事前に準備出来るわけもない。
「わかりました。機会があったらお邪魔します」
「はい。ぜひお越しください。お待ちしております」
 しきりに頭を下げながら、彼は去っていった。
 私は名刺を財布の中に入れながら、自宅へと向かって歩き出す。
 
 
 
 
 不思議な男の人と相席になった日から数日後。
 たまたま仕事が終わってから少し時間が空いた私は、男の人が経営しているという雑貨店に寄ってみることにした。特に何かを期待していたわけではなく、本当に単に時間が空いたから、行ってみようという気になっただけだった。しかし、あとから思えば、この時すでに私のその店の持つ不思議な魅力に取りつかれていたのかもしれない。
 行くことを決めたものの、雑貨店はすぐには見つからなかった。
 少し路地を入って暫く歩く奥まった場所にあったからだ。薄暗い周りの雰囲気に少し気後れしつつも、私は扉をくぐって店内へと入る。
 そして、驚いた。
 こんな場所にあるとは思えない、明るい店内は、私が密かに集めている可愛らしい雑貨で埋め尽くされていたからだ。
 壁一面に並ぶぬいぐるみの数々は、皆透き通るようなつぶらな瞳でこっちを見ている。ふわふわ柔らかそうな毛は、触らなくてもその触感が想像できるほどだ。汚れは一切なく、特に白いぬいぐるみは積もりたての雪かというほどで、触るのが恐れ多いと感じるほどだった。
「は、はわ、わわわ……」
 冷静さが売りの私でさえ、奇妙な声をあげながら、吸い寄せられるようにそのぬいぐるみに近付いてしまう。
 ドキドキしながらぬいぐるみに触れると、そこには地上の楽園があった。もしもこんな物を抱いて寝たら、気持ち良すぎて起きれなくなりそうだ。けれど、これを抱いて死ねたら本望かも知れない。なんて、あながち大げさでもないことを考えていた。
 私はその場で外聞も何もなくぬいぐるみに抱きついてしまいたくなるのを、必死に抑えなければならなかった。
「お気に召しましたか?」
 突然、店の奥のカウンターから声を掛けられて驚く。そちらを見るとあの時、喫茶店で出会った男の人が、店の制服だと思われるエプロンを着てこちらを見ていた。
 恥ずかしいところを見られていたことに気づき、顔が熱くなる。慌てて誤魔化した。
「あ、はい……可愛いお店ですね」
 まさか彼の雑貨店がこのようなファンシーな物を売っているとは。普通の雑貨店だと思っていたから、本気で意表を突かれた。
 そう彼に指摘すると、彼は少しばかり苦笑いをする。
「この店は、お客さんの『欲しい物』を売る店ですので」
 不思議な言い回しだと思った。店員……いや、店長さんの言い方だと、まるで入って来たお客さんによって陳列の中身が変わるような――そんなありえないことを言っているようにも思える。
 仮にそう考えると、確かにこの店の商品は本当に私の嗜好に合いすぎているような気も――と、そこまで考えて私は馬鹿な考えを振り払った。
(まさかね)
 そんな非科学的なことなんてあるわけない。子供のように小柄な体であっても、頭の中までお子様ではない。ありえないことはありえないのだ。
 私がそんな風に心の平静を保っていると、男の人は何やらカウンターの中の棚を漁っていた。
「先日はありがとうございました。……あ、これ、先日お借りしたお金です」
 店長さんがそう言って差し出して来たのは、綺麗な封筒に入ったお金だった。そういえばお金を貸していたことを私は思い出す。いつでも返せるように準備しておいたのだろう。数百円単位の話なのに、真面目な人だ。
 それでも一応けじめとして封筒の中身を見て、ちゃんと金額が合っていることを確認する。
「では、確かに返してもらいました」
 お金を封筒ごと鞄の中にしまう。
 それから、私は改めて店内を見渡した。
「……本当に、可愛い物ばかりですね」
 思わず頬が緩んでしまう。いつもは人前でこうならないように気を付けているのだけど、やはり止められなかった。
 そんな私を笑顔で見ていた店長さんは、近くにあった小さなぬいぐるみを手に取る。
「どれも良いものでしょう? なんでしたら、一つお買い求めになっては?」
 つぶらなぬいぐるみの瞳がこちらを見ている。
(うぅ……こっちに向けないで……)
 なるべくこういうものは買わないように自分を律していたのだけど――さすがにこの可愛いぬいぐるみを見せられたら――財布の紐が緩んでしまう。
 私は悩んだ。悩み続けて、ついに。
「ありがとうございましたっ」
 これほどの物にしては安かったこともあり、私はついに誘惑に負けてしまった。
 抱き抱えて寝れるサイズの物にしたからそれなりの値はしたけど、その価値は十分ある。
 さすがに抱き枕サイズのそれをそのまま持って帰るのは、かさ張りそうだったので、家に郵送してもらうことにした。
「今日の夜の九時までには届くようにしますね」
「出来るんですか? ……そんなに早く」
 ここからなら、確かにそれほど距離が離れているわけではないけど、宅配業者に頼んだらそんなに速くは届かないはずだ。時間も時間だし、最速でも翌日になるだろう。
「ちょっとしたツテがありまして。任せてください」
 にっこりと笑顔でいう店長さん。早く届いてくれる分には全然問題なかったので、任せることにする。
 手続きが終わったあと、店員さんはさっき言っていたツテとやらに連絡を取るためか、電話をかけ始めたので、私は店の中を色々見て回ってみることにする。
 どれもこれも私が好きな類の物ばかりで、私は楽園にいるような気持ちにさえなった。なぜこの店にもっと早く行きつけなかったのか――そんな悔しい想いさえしてくる。
 幸せ気分で店内を満喫していると、ふと、一風変わったコーナーに通りかかった。
「……これは……猫耳?」
 紛れもなく猫耳だった。仮装に使うものなのだろうか。
 妙にリアルな物もあれば、ファンシーな可愛さ重視の物もある。種類も豊富で、猫以外にも様々な動物の種類の物があった。
(なんでこんなものを……? 確かに可愛いと言えなくはないけど……)
 ファンシーショップには似つかわしくないように思えた。
「おや? こんなものが出てたんですか」
「ひゃ!?」
 突然背後から声がして、私は思わず飛び上がって驚いた。
 店長さんは苦笑しながら頭を下げる。
「すいません、驚かせてしまいましたね」
「い、いえ……大丈夫です」
「動物がお好きですか?」
「そ、そうですね。可愛らしい仕草は見てて和みますし、飼い主に思う存分甘えられていいなあ、って思ったり…………あっ」
 思わず口にしてから、私は慌てて口を抑えた。
「甘える?」
「あ、えっと……その……な、何でもないです!」
「ふうむ。なるほど。動物のように、人に甘えてみたいわけですか」
「え、あ、その、そういうわけじゃ……!」
 何で思わず口に出てしまったのだろう。『甘えたい』、なんて絶対誰にも言わないようにしていたのに。親友の二人に言うならともかく、先日知り合ったばかりのこの人に言ってしまうなんて。
「……わ、忘れてください! ちょっと思ってるだけですから!」
 甘えたいと思っていること自体、私にとっては弱み以外の何物でもなかった。
 店長さんは私の方を見て暫く何かを考えていたようだったが、何気ない様子で壁にかかっていた犬耳を手に取った。
 そして、本当に何気ない動きで、その犬耳を私の頭に乗せた。それは私が咄嗟に振り払うことすら思いつかないほど、自然な動きだった。
 犬耳が私の頭に装着される。
 そして。

 突然、強い光が視界を埋め尽くした。

 思わず目を瞑ってしまった私は、強い光が収まったことを瞼の裏で感じる。そして同時に、自分の身体の感覚が変になっていることにも気づいた。
(この、感触……まさか……)
 肌に直接空気が当たるこの感触は。
 強烈な光のせいか、目はまだ思うように見えていない。けれど、体の感触から、私は自分が裸になってしまっていることに気付く。
「ひゃっ!」
 思わず手で隠そうとして――その手が自由に動かないことに気付いた。
「きゃぅ、うぅ!?」
 それだけじゃない。声も、変だ。何かが喉に詰まっているような感じで、形にするはずの言葉が発声できない。
 突然のことに、混乱しかけた時。
「落ち着いてください」
 店長さんの声が頭に響く。天からの声だとかそういう超常現象的な意味合いじゃなく、本来音が入ってくるべき耳がある方向の、横からではなく、上の方向――頭頂部に近いところから音が頭の中に入ってきていた。
 混乱する私の前に、店長さんは立っていた。変わらぬ笑顔で、私の方を見ている。思わず身を竦めた私の前で、店長さんは手を翳した。その手の翳し方から、私は自分が座り込んでいる体勢になっていることを知る。ひんやりとした床の感触がお尻にあった。それだけではない何か別の違和感を私はお尻に感じていたのだけど――その正体を知る前に、店長さんが口を開く。
「まずは落ち着いてくださいね。私の言っていることはわかりますか? わかったらゆっくり頷いてください」
 逆らおう、という気にはなぜかならなかった。それどころか、店員さんの「落ち着いてください」という言葉に従うように、私の心は不自然に落ち着いていた。
 そして、言われたまま、私はゆっくり一回頷く。店長さんは満足したように笑った。
「さて、それでは状態確認をしましょうか。慌てず、落ち着いて自分の体を見てみてください」
 店長さんに言われるまま、私はゆっくりと自分の体に目線を落とす。まず肌色が目についた。
 そうして自分の体をみた私は、自分が床に座り込んでいるのを視覚で理解した。まるでコンビニの前でたむろする不良のように、股を開いて腰を落とした体勢だ。その開いた足の間にまっすぐ伸ばした手を付いている。手は何故か拳を握りかけているような状態で固まっていた。別に拘束されているわけでもないのに、指がろくに動かず、物を掴むことは出来そうにない。
 そして、体の感覚が教えてくれた通り、私は素っ裸になっていた。その状態で足を開いて座り込んでいるのだから、前から見たら凄い格好だろう。足の間についている手が多少は目隠しになっているだろうけど。
 前には店長さんが立っていて、つまりそれは彼に全てを見られたと言うことになる。
「顔をあげてください」
 恥ずかしくなって頬を紅潮させる間際に、店長さんからそんな声がかけられる。絶妙なタイミングだったため、私は思わず顔をあげてしまった。
 そして目に飛び込んできたのは――

 一匹の、犬だった。

 言葉通りに犬がいたという意味じゃない。
 その『犬』は、『私』だった。
 一瞬理解できなかったけど、程なく理解する。いつの間に用意していたのか、目の前に置かれている鏡に映っている『それ』。
 頭には犬の耳がある。お尻には柔らかそうな尻尾もある。まるで犬が「お座り」と言われているときのような格好でそこに座っているのは――私自身だった。
(なんで? どうして? わたし、どうなってるの?)
 疑問が頭を巡る。訳がわからなくなってくる。
 鏡の後ろに店長さんの姿を見つけた私は、慌てて彼に尋ねた。いや、尋ねようとした。
「うぅ、ぅわぅっ……うぅっ!?」
 私は『なんなんですかこれは!』と言おうとしたのに――言ったつもちだったのに、それは形にならず、唸り声に近いものにしかならなかった。
 パニックを起こしかけた時、鏡から離れて私に近づいて来ていた店長さんの柔らかな声が耳を打つ。
「大丈夫です。落ち着いて私の話を聞いてください」
 店長さんの手が、私の頭に触れ、優しく撫でる。その柔らかな手付きのせいか、それとも別の要因があるのか、その『頭を撫でられている』という事実に、私は幸福、としか言い様のない満足感を覚えた。こんな状況でなければずっと堪能したいと思えるくらいの、幸せだった。
 彼の手が離れるとき、言い様のない寂しさを覚えたくらいだ。そんな自分の心情の変化に戸惑う。
 店長さんは膝を突いて私の視線に高さを合わせる。
「先ほど私があなたに着けた『犬耳』ですが、あれはただの『犬耳』ではありません。人を『犬』とし、回りにも『犬』として認識させてしまう……まあ、道具なんです」
 もっとも私の認識には利きませんが、と店長さんは補足を入れる。
「その『犬耳』を付けている間、あなたはあくまで犬として周りに認識されます」
「わあぅッ! わん!」
 そんな馬鹿なこと、といったつもりがやはり言葉が出せない。彼は困ったように眉を潜める。
「すいません。『犬』になっている間は人の言葉は喋れないんですよ。だって犬が人の言葉を喋ったら変でしょう?」
 それはそうかもしれないけど……戸惑う私の頭をまた店長さんが撫でる。
「いまのあなたは犬として認識されていますから、犬としてふさわしい行動をして何の問題もありません。甘えることだって簡単ですよ。……まぁ、犬嫌いの人に関しては保証しかねますが」
 店長さんはさらに説明を続ける。
「『犬耳』を付けている間、人間としての貴方の存在はなくなります。例えば数日間『犬耳』を付けて過ごした場合でも、その間人間としての貴方は行方不明として扱われるわけではなく、元からいなかった扱いで世界は動きます。『犬耳』を外せば、すぐに元通りになるので心配しないでください。まあ要するに、『犬耳』を付けて楽しんでいる間、人間の時のことは気にしなくていいということです」
 言いつつ、店長さんは『犬耳』に手をかける。
 次の瞬間、またあの光が生じた。思わず閉じた目を恐る恐る開ける。
 目の前に店長さんが『犬耳』を持って立っていた。
 あることに気付いて体を見下ろすと、そこにはちゃんと服を着た私自身の体があった。体勢も座り込んでいた姿勢から、犬耳を装着された時のように立っている状態になっている。あまりにあっけなかったため、先程のことは一瞬の内に見た夢だったんじゃないかと思うほどだった。
「いかがでしたか?」
 にこやかに話しかけてくる店長さん。私は少し震えながらそれに応じる。
「いまのは……本当に、あったことなんですか? 一体……どうやって……」
 当然だ、とばかりに店長さんは頷く。
「理屈だとか、理由だとかは聞かないでください。私も全てを理解している訳ではないですし、『そういうもの』だと思っておくのが賢いと思いますよ」

 小難しい話は置いておいて、と彼は言う。

「『これ』――買いませんか?」

 手に持った『犬耳』を示して、店長は笑う。
 私は酷く緊張した気持ちになって――唾を飲み込んだ。



 
 雑貨店から家に帰って来た時、私は通勤鞄の他には何も持っていなかった。
 結局、私はあの『犬耳』を買わなかったのだ。
 玄関のカギを閉めながら、そっと息を吐く。
(だって……ねぇ?)
 あれを買うということが、どれほど異常なことなのか。それがわからないわけもない。
 私は通勤鞄を部屋の隅に置き、クローゼットを開きながら考え込む。
(確かに、誰かに甘えたいって思うことはあるけれど、かといってあの『犬耳』は……ねぇ……)
 仕事着のスーツからラフな部屋着に着替えながら、そう思った。犬の姿そのものになるならまだよかったのだけど、なぜあんな中途半端な変化なのだろう。あれではえっちな犬のコスプレをしているただの変態だ。それをすぐに受け入れられるほど、私は達観出来ていない。
 だから買わなかった……のだけど、今更ながら少し残念だったような気もしていた。
 なぜなら、あの『犬耳』があればいままで部屋の中だけでひっそりとやっていた『あれ』のようなことが堂々と出来る。その魅力はあった。
 いわばあの『犬耳』は私の『甘えたい』という表の願いと、『素裸で露出したい』という裏の願いを同時に叶える道具だった。
 でも、まあ、さすがにあれを平然と買えるほど達観してはいなかった。達観していたら、そもそも『甘えたい』なんてことを願うこともなく、普通に誰かに甘えていただろう。自分の容姿が平均より優れているのは、うぬぼれじゃなく唯の事実として把握している。もちろん小柄な体躯もあって人より幼く見えるということも。上手く振舞えば甘える相手くらい見つけられる。それが出来れば、苦労はしない。私にだって大人としてのプライドはあるし、人間としてのプライドがあるのだ。
 私はためいきを吐きながら夕食の準備でも始めようと、キッチンへと向かう。その時、チャイムが鳴り響いた。
(もしかして、もう頼んだのが届いたのかな?)
 自分が家に帰るのと変わらない時間しかかかっていないなんて、余程特別なツテだったのだろう。
 出てみると、予想した通り届いた物は雑貨店で買ったぬいぐるみだった。見たこともない宅配業者だったが、いまさら何も驚かない。
 宅配業者から荷物を受け取った私は、早速部屋の中にそれを運び入れて箱を開いてみる。あの『犬耳』のインパクトが強すぎてすっかり忘れていたけど、これはこれで十分すぎるほどに魅力的な商品だった。大きさがきっちり合った箱に、そのぬいぐるみが詰められていた。私がぬいぐるみを箱から取り出すと、その柔らかな毛がふわりと広がった。白い毛が目に眩しいほど輝いている。ふわっとした最高の肌触り。私は我慢出来ず――もう我慢する必要もない――ぬいぐるみを力一杯抱き締めた。
 触れたところから余すことなく感じる程よい弾力と暖かさ。お日様のような爽やかな匂い。何を取っても、どれをとっても、最高の逸品だった。あまりの心地好さに、意識が飛びそうになる。気分が悪くなったり痛みによったりして意識が飛びそうになる経験はあったけど、心地よさで意識が飛ぶというような経験はしたことがなかった。例の秘め事の時に似たような経験はあったけど、あれは激しい快感であり、いまのような穏やかに満たされる感じじゃない。
(う、わぁ……すご、い……)
 思わずぬいぐるみを抱き締めたままベッドの上に寝転がる。
 全てが満たされているような至上の幸福の中、私はゆっくり目を閉じた。

 目が覚めた時、時刻は真夜中だった。
 あまりの心地好さにあのまま眠ってしまったらしい。そうなるとは思っていたけど、本当に心地が良かった。しっかり体も心も休めたらしく、妙に調子が良かった。全てのストレスや悪いところをぬいぐるみが全て吸収してくれたかのようだった。あんな『犬耳』を売っている雑貨店のことだ。ひょっとすると、このぬいぐるみにも何か特殊な効力があるのかもしれない。
 まあ、どうであれ。
「これから、ずっと安眠出来そうね」
 仕事のストレスなんて一気に吹っ飛ぶ。仕事の効率が今までにないほどにあがりそうだ。
 その時、お腹が鳴った。誰もいないことはわかっていたけど、恥ずかしくなって顔が熱くなる。
「昼から何も食べてないもんね……」
 さすがに空腹感だけは、最高のぬいぐるみでもどうしようも出来ない。
 こんな時間に食べるのはどうかと思うけど、いまの状態ではとても寝れそうにない。
「なに作ろうかな……」
 何かカロリーの低い、軽い物でも食べようと立ち上がった時、ふと床に置かれたままの段ボールが目に入った。ぬいぐるみが入っていた箱だ。
 その箱を片付けてしまおうと思い、私はその箱に近づいて、その中にまだ何か入っていることに気が付いた。
 一瞬それが何かわからなかったけど、理解すると同時に心臓が跳ねる。

 箱の底に入っていたもの、それは、あの『犬耳』だった。

 一枚の紙がそれの下に敷かれていて、そこには店長さんの伝言が書かれていた。曰く。
『お金を貸してくださったお礼に、一週間だけお貸しします。気に入ったら購入をご検討ください  雑貨店 店長』
 心臓が五月蠅いほどに跳ね回っている。
 私はその『犬耳』を前に、微動だに出来なかった。
 
 
 
 
その3に続く
 
 
 
 

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 以下、連載中の作品概要


『私の名前はまだない』
(MC物、ペット化、女性視点)
(最終更新日:2013/12/07)

『思い通りになる世界 ~forガール~』
(カオスジャンル、世界改変系)
(最終更新日:2016/02/28)

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